日中関係〜歴史〜
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明治維新を断行して近代化の道を進む日本は、1870年8月、清国に対して修交提議をしたが清国はこれに応じなかった。しかし、李鴻章や曽国藩は近代国家として発展しつつある日本と通商を開くことの道理を説き、清国はついに修交に決した。かくして1871年7月に日清修好条規が調印された。これは日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合うことによる平等条約であった。つまり、近代における日清関係は対等の関係から始まったといえる。
日清の関係は朝鮮をめぐって険悪化することになる。日本から見れば朝鮮半島は大陸から突き出た匕首であり、他方中国からすれば朝鮮は境を接する隣国であり、どちらにとっても地政学的に重要な位置を占めていた。1875年の日朝修好条規以後、日本は朝鮮に、欧米列強に対抗するアジアの盟邦となるようその近代化を望み、朝鮮の内訌に介入し改革を図った。しかし、1882年の壬午事変では、清国が乱を鎮圧し、事変の首魁である大院君を清国に拉致・抑留した。その後清国は朝鮮内の事大党と協力し、朝鮮の政治・軍事の実権を掌握した。さらに日本の朝鮮進出を阻止するため、朝鮮に欧米諸国と通商関係を結ばせた(いわゆる「夷を以て夷を制す」という外交術である)。1884年の甲申事変では、日本の援助を得た金玉均率いる独立党を袁世凱率いる清国軍が破り、翌1885年に伊藤博文と李鴻章の間で天津条約が結ばれる。この天津条約で、将来朝鮮の変乱に日清両国が出兵する場合は事前に通知し、事後は直ちに撤兵する旨の規定があり、この条項がのちの日清戦争開戦につながることになる。
日清戦争で大敗した清朝は、続く義和団事件でさらに弱体化を露呈し、列強、とりわけロシアと日本はその隙につけこんで、満州や遼東半島の利権獲得に躍起となった。そして利害は対立し、両国は戦争(日露戦争)にまで至るが、日本の勝利に終わり、日本は中国での利権拡大を本格化に進めることになる。
この間、中国では次第に軽工業が発展し、多数の工場労働者が輩出され、また文学革命を経て、愛国心が高揚し出していた(20世紀までの中国は近代的な国民国家ではなく、西洋近代的な意味での愛国心は存在していなかったと考えられる)。その愛国心は当初、イギリス排撃に向けられていたが、第一次世界大戦でイギリスの影響力が遠のき、日本の支配力が強まると、やがて日本に向けられるようになる。
戦争が始まると、日本は連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、青島におけるドイツの利権を奪取することなどを盛り込んだ対華21ヶ条要求を中国に突きつけたが、これは中国大衆の反発を招き、学生らのデモに発展した(五四運動)。しかし中国には日本に反発できるだけの力を持った統一政権が存在しなかったため、日本の侵出はエスカレートしていくことになる。
この状況を憂慮した孫文ら革命政府は統一を目指して北伐を開始した。広東から出発した北伐軍は破竹の勢いで北上を重ね、山東に至ったが、そこに居留民保護の名目で駐留していた日本軍(山東出兵)と衝突し、死傷者が発生した(済南事件)。日本はこれを口実に派兵増強の構えを見せたため、北伐軍は山東を回避して北京を目指した。
その頃満州を支配していた張作霖は北伐軍に抗し切れないと見て、投降を目論んだが、それを察した日本はこれを爆死させる(張作霖爆殺事件・奉天事件)。しかしその跡を継いだ張学良は日本への恨みなどから、北伐軍に合流したため、北伐は完了し、中国は再び統一された。
しかし統一政府は軍閥や財閥の合同政権であり、さらに共産党の台頭もあって弱体であった。そこで蒋介石は共産党撲滅作戦を展開し、その本拠地を包囲攻撃した。共産党軍は命からがら脱出し、陝西まで逃げ落ちることになる。その間、日本は済南事件などを理由に「懲支」(中国を懲らしめる)として、反中国キャンペーンが展開され、これを受ける形で中国侵略を加速化させていく。そして満州事変ではついに中国東北部に衛星国家・満州国を樹立させてしまう。
当時の日本は大恐慌の煽りを受け、新たな植民地を獲得することで、その苦境を打開しようとする意見が盛んであり、満州建国はその考えの延長線上にあった。しかしその膨張主義は海外の批判を浴び、日本は満州国は満州族の自発的な民族自決運動、と反論したが、リットン調査団の報告を受けた国際連盟はそれを却下し、日本は憤って連盟を脱退した。
一方満州国建国は南京政府にも大きな衝撃を与え、蒋介石は華北の軍隊を増強。これに反応して日本も軍隊を増強・南下させ、ついに盧溝橋で両軍は衝突し、日中戦争が始まることになる。
日本は連戦連勝し、その勢いで相手を降伏させ、有利な条件で講和に望もうと考えていたが、蒋介石は撤退を重ねながらも抗日を続け、張学良の進言で共産党と合作して日本に当たる決意をした(第二次国共合作)。この頃までには愛国心・反日運動が広まっていたことから、農村部までは屈服させられず、日本軍は都市や鉄道のみを支配する「点と線の支配」を余儀なくされ、そのすきをついて、共産ゲリラなどが横行した。
これに対応している内に戦争は長期化し、ゲリラの逮捕・処刑のみならず一般民衆への虐殺・強姦行為が頻発し、さらに中国民衆の反感を募らせる悪循環が横行し、戦線は泥沼と化していった。
日本政府はこれを憂慮し、戦線を拡大させない方針を決定したが、現地軍はこれを無視し、国民もまた軍を支持した。当時の日本の大衆の多くは長引く不況に上がる花火のような形で日中戦争を支持しており、現地での虐殺行為なども伝えられなかったことから、日本軍の攻撃は腐った中国人にカツを与える正義の戦いだ、と捉えていた。(当時描かれた「のらくろ」などでは日本=犬、中国=豚と読み取れる戦争シーンが出てくる。そこでは豚は貪欲で犬の利権を侵害したために、犬によって懲らしめられる、とされている)
一方で中国では民衆は必ずしも反日一本槍ではなく、戦争に無関心な人、親日的な人の存在も少なくなかった。後者の代表は汪兆銘であるが、彼らは南京陥落後、臨時政権を作って日本軍に協力することになる。
南京を落とされた蒋介石は、長江を遡って武漢、さらに重慶まで逃げていく。日本軍は武漢までは制圧できたが、その先はまともな道路が存在せず、進撃を阻まれてしまう。このこう着状態を捉え、蒋介石はアメリカの説得に成功し、ルーズベルトは対日工作を本格化させる。日本軍の残虐行為も報道され、アメリカ民意もおおむね反日的になっていた。
かねてからアメリカは日本の中国における利権拡大を恐れていたが、満州国以後はその恐れを増幅させていた。日本が中国のみならず、米領フィリピンにも侵略してくるのを恐れていたこともあった(日本領台湾の直南がフィリピンである)。そこで蒋介石からの救援要請を奇貨とし、これを軍事援助するのみならず、同様に日本の大陸侵略に反発していたイギリスと協調して日本に圧力をかけた。しかし日本はそれに反発し、侵略の手を緩めなかったので、日米関係は悪化する一方であり、終には日本は、連合国との戦争に踏み切る。
中国のみならず、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなどを敵とせざるを得なくなった日本は、中国戦線から兵力を引き抜いて対処したため、中国軍は息を吹き返し、日本軍は劣勢に追い込まれていく。そして広島長崎で戦争は終結するが、その報に接した中国人の感想は「因果応報」だったと言う。つまり、自ら戦争を始め、多くの民衆を殺害した日本人が、その民衆を虐殺されることでその報いを受けた、ということである。懲支思想と比較して見ると、日中双方の相手への考えの違いが理解できる言葉である。
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